悲しい物語でした。玲音の選んだ選択は寂しいものでした。でもこれが「たった一つの冴えたやりかた」でハッピーエンドだとも一瞬考えました。玲音は寂しくても世界は幸せなのだろうと。それを玲音は望んだのだろうと。以下は果たして本当にそうなのだろうか
という自問自答のようなものです。まず、そういう選択肢に導いたのは「ありす」の存在が大です。残念ながらPS版では、トウコさんもキョウコちゃんもミサトちゃんも「ありす」にはなれず、PS版の結末は暗いものでした。
TV版は(玲音を除いて)表面上は明るいです。
PS版とTV版の違いは、プロトコルで繋がらなくても、玲音に肉体が生きていることを感じさせてあげれる、他者−友人−の存在です。それ以外の玲音の物語は一緒だと思います。あえて言うならPS版の玲音とTV版の玲音は別人だけど、同じ存在とでも言うのでしょうか。神としての存在や、他人に認知されるリアルワールド上の存在をやめて、傍観者として他人と世界を見守る天使のように見えるTV版の玲音。
自分との結びつきを確認するためか、他人をつぎつぎとネットワーク上にインストールしてしまうPS版の玲音。
両者は両極端の結末を実施しています。
前者からは寂しさを、後者からは無機質な感じを第1印象で受けます。
前者は自分の居場所がどこなのか悩み、後者は自分の居場所をネットワーク上に求めたようです。
前者は傍観者ですが、後者は自ら他人とリンクしようとしているようです。
両者が同じ存在とするなら、その相違点は「ありす」の有無。(ところで13話の冒頭でありすが恐慌状態におちいらず、玲音とだきあうとかのリアクションをとっていたら物語の結末はどうなったのでしょう?)
玲音の選択は、世界の再生などではなく、ありすを泣かせたくないのが動機というのはは自明の理。
それは、玲音の覗きの結果から出たありすの醜聞を、みんなの記憶から消去したやり方と本質的に同じです。
最初は、玲音とありすの記憶は残した。それでも、ありすの傷は癒えない。
ならば、玲音の存在ごと世界の記録から消去した。
どうやって?
オール・リセット?
時間軸を遡って?
デバイスなしに他者にアクセスできるレインにしても、そこまでできるのか?本当に、レインは神様なのか?
贈り物の日々。贈り物の時間(注1)。そう考えると、あの世界が仮想世界−ワイヤードに繋がれた人々が演じる舞台に見えてきました。
箱庭のような舞台、観客は玲音一人。そこではリアルワールドは存在していないのかあるいは無意味。天使のような傍観者である玲音のイメージとはかけ離れた世界。
それは、PS版の結末と同じもの。PS版ではIPv7が無いので、ネットワーク上でエミュレートされた世界は玲音を中心にした狭いもので、玲音も観客ではなく、登場人物のようではありますが。
「人はみんな繋がっている。人の意識の本当にあるところで・・・」
−scenaro experiments lain−より
人の意識が本当にあるのは何処だと、幾人かの玲音がどう考えたかは、私には知る由もありません。
ただ 、 TV版の最終話を観て 、 私にとっての玲音の物語は 、RecordではなくMemoryとなりました。
注1:プレゼント・デイ/プレゼント・タイムの和訳を知らずに書いていました。「贈り物の〜」などという意味はないそうです。ですが、この文章は投稿時のママ、間違いをさらしておきます。本当は「プレゼント〜」で「現在の〜」とかいう意味があるらしく、この場合は、「プレゼントデイ」->「今日」、「プレゼントタイム」->「この時」「現在」とでも訳すのだと思います。